テーマ:思い出

ホッと空の物語67‐トンネル掘削機の能力/深さと長さ

シールド・硬岩TBMは誕生後も絶えず進化を続けている。これまでの歴史を振り返ると、現在は第三世代の後半と言うところかと思う。この先、周辺技術が高度化したりニーズの次元が変わると、どのような姿になるか興味が尽きない。まず基本的な疑問として、どのくらい早く掘れるか、どこまで深く掘れるか、どこまで長く掘れるか、どれほど大きく出来るか、どのよう…
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ホッと空の物語66‐トンネル掘削機の能力/大きさ

シールド・硬岩TBMは誕生してから進化を続けている。これまでの歴史を振り返ると個人的には、現在は第三世代の後半と言うところかと思う。この先技術レベルが高度化しニーズの次元が変わると、どこまで行くか興味が尽きない。まず基本的な課題として、どのくらい早く掘れるか、どこまで深く掘れるか、どこまで長く掘れるか、どれほど大きく出来るか、どのような…
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ホッと空の物語65‐トンネル掘削機の能力/速度

シールド・硬岩TBMは誕生してから進化を続けている。これまでの歴史を振り返ると個人的には、現在は第三世代の後半と言うところかと思う。この先技術レベルが高度化しニーズの次元が変わると、どこまで行くか興味が尽きない。その中で基本的な課題として、どのくらい早く掘れるか、どこまで深く掘れるか、どこまで長く掘れるか、どれほど大きく出来るか、どのよ…
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ホッと空の物語64‐TBMオリンピック ロンドンCTRL‐2

CTRLプロジェクトはドーバー以後10年振りの大型案件だった。欧州ではシールド工法が見直され活発に採用されていた。我々はここまでに英国に実績を築いていたので地歩をより固める事が出来る、部門の人材も若返っているので海外活動を継承する事も出来ると期待した。しかし、英国内も足元も大きな環境変化が始まっていて、加えて技術面でも様々なトラブルが起…
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ホッと空の物語63‐TBMオリンピック ロンドンCTRL‐1

第30回オリンピックは2005年にロンドンに決まり2012年に開催された。これに先立つ2002年から2003年にかけてTBMのオリンピックとも言うべきプロジェクトが英国に在った。CTRL(Channel Tunnel Rail Link) と言う。英仏両国はユーロトンネルの開業に合わせて高速鉄道路線を整備することになっていた。フランスは…
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ホッと空の物語62‐魅惑星インド

インド大陸はユーラシア大陸とは別なもので、遠くから流れ着いたと言われる。同じように人も社会も異なる惑星から来たのではないかとの印象を受けた。この国に対しては嫌う人と、好きな人の差が激しいと聞く。私には測り知れない興味と不思議な魅力がある。 インドの国土は日本の8.7倍で人口は約10倍である。しかしGDPは30%足らずなので、単純比較で…
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ホッと空の物語61‐中国紀行

 56才になると役職定年となり実務ラインから退く。2006年のことで、社内業務の他に関連会社MCLの専務の肩書をもらった。中小ゼネコンと共同で設立した小口径の推進機を扱う会社で、KHIが製造して方向制御機構と新開発の自走ロボット式測量技術が自慢で、経営的には優良企業だった。月に一度の役員会に出席するのが職務で無報酬である。そして毎年9…
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ホッと空の物語59‐オープンTBMよ もう一度

硬岩TBMのコア技術はローラーカッター(DRC)と大容量ドライブユニット(電動機、減速機)である。DRCは17インチ、19インチについてMMC社と共同開発を行った。競合会社のグループ企業なので強い社内反対が有ったが、巨大な一流企業でないと追い付けないと信じたし、MMCの開発担当者とは同じ夢を見て協力しあうことに一致した。ドライブユニット…
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ホッと空の物語58‐硬岩用トンネル掘削機のテイクオフ

軟弱土用シールド掘進機は泥水式、土圧式の開発により、1990年台までは日本が世界を席巻した。しかし硬岩TBMは、まだ欧米が圧倒的であった。ドーバー終了後の海外での営業活動はTBM分野では完膚無きまでの敗北であった。ただドーバーで二つの技術が交差し新しい風が生まれてきた。ロビンスのディックが、「あなた方は一度覗いた技術は消化して強力な武…
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ホッと空の物語57‐西の衝突地点 グラナダ・アランブラ宮

グラナダ イスラム教圏とキリスト教圏の争いはいまだ続いている。 もとは同じストーリーを有する兄弟宗教なので理解は難しい。私の個人的な見解としては、宗教と言うものは少なくとも2000年以上経過しないと成熟(柔和化)しないのではないかと思っている。イスラム暦元年は西暦の622年であるので、現在のイスラムの宗教的歴史年代は キリスト教の14…
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ホッと空の物語56‐文明の衝突地点 イスカンダリア

イスタンブール かつてコンスタンチノーブル(古い地名はビュザンティオン)と呼ばれた。395年に東西に分割された東ローマ帝国(後世にビザンチン帝国と呼ばれる)の首都である。 現トルコではイスカンダリアと呼ばれている。1996年と1998年に訪問した。ボスポラス海峡を横断するトンネル計画の調査である。 この都市の地勢は地政学の模範のよ…
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ホッと空の物語54‐瞬きの終わりに

瞬きのおわりに 英仏海峡を陸続きにする夢は、私が入社する頃に二回目の計画が起こり、掘削機も完成して工事開始寸前まで行ったが経済問題から頓挫した。そして10年後の1980年代半ばに三回目として挑戦された。 この10年の間に日本の掘削機は手掘式から機械式、そして密閉式と驚異的に進歩した。三回目の局面ではKHIは硬岩用TBM技術と大口径軟…
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ホッと空の物語52‐海峡のモグラ-不朽のモニュメント

T2ヨーロッパ号の20.009Kmの5月24日到着に続きT3カトリーヌ号も、1991年6月28日に18.857Kmを掘削して完了した。平均月進はT2が664m、T3が685mで契約の530mをはるかに超えるものである。ちなみに従来の実績では150m~200mである。月進最高はT3の1178mで世界最高記録である。 カッタヘッドが回転し…
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ホッと空の物語37‐海峡のモグラ-勝利の美酒

TMCとの協議は仕様、契約条件の一語一句をつめていく。後日の係争の目を完全に摘むためである。この業界では実施段階で紛争になることもあるが、このプロジェクトではそのようなことを避けるため、用語の誤解釈がないように一語毎に意味を確認しあい、必要なら用語を変更して合意していった。しかしこの時点では互いに知識、認識の不十分なこともあり、予測しが…
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ホッと空の物語33‐海峡のモグラ-不可解な動き

三社から二社へ... コスト積算を待つ段階で、不可解な動きが出てきた。 5月08日(金)になって、T2,3は原点に戻ってスラリー式が採用されるとの情報が何処からか出てきた。これに対して、FCBとロビンスはT1と同じ形式の土圧式を本案とし、スラリー式はオプション(別途見積り)で出す。MCSの土圧式は出さないと言いだした。 何故こんな…
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ホッと空の物語-21 海峡のモグラ‐T1の敗退

受注近し、と打電した翌日の14日に不安な情報がもたらされた。ウルパイン氏よりR.Satoへ電話があって「DHIはニューアイデアのダブリュスクリュー(W/SC)排土の土圧式である、泥水式のFCBは必ずしも安泰では無い」と連絡が入った。 DHIは耐圧性能を上げるため、長いスクリューを直列に2台接続した(W/SC)シールドであった。このアイ…
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ホッと空の物語‐19 海峡のモグラ-仏企業と共に

1986年の7月にTBM各社は技術仕様書と見積書を提出した。我陣営は、陸上側、海峡側共にTMCの要求仕様どおり、泥水式で応札した。日本勢の他社は海陸共に新型スクリューコンベア(SC)を採用した土圧式、米国ロビンスもスクリューコンベアの後部に新鋭の耐圧装置を装着した土圧式とのことであった。 TMCによるヒアリングの後、9月になって、最初…
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ホッと空の物語‐17 英仏海峡トンネルの構造

英仏海峡は英国名はドーバー海峡、仏名はアングロフレンチ海峡または単にラ・マンシュと言う。地層は繋がっていて、海峡は上部のホワイトチョーク層を掻きとった感じで形成されている。各地層の色は読んで字の通りである。掻き取られた岸壁はホワイトチョークの断面なので、まさに白い。両岸は同じだが仏側は北に面し日陰であるので、南を向いた英国側が輝いている…
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ホッと空の物語-14 新しい家庭

入社してしばらくすると、父が盛んに見合いの話を持ってきた。皆郷里の人であった。遠くの娘をもらうと帰ってこないと心配してのことである。盆、正月やゴールデンウイークに帰省する毎に見合いをさされた。 見合い相手何人目かの妻とは会った時にすぐ決心した。年末に会って、翌年2月には婚約し、5月3日に式を挙げた。昭和50年のことで私が26歳で妻が2…
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ホッと空の物語-13 驚愕の独製硬岩TBM

ビルト社ではTBMを製作している工程を追いながら、輸入後の運転、メンテナンスをスムーズに行うために、研修を受けた。毎日、講義と現場実習である。自身の会社では、TBM事業は開店休業状態だったので、製品への関心はあまりなかったが、彼らの基礎技術には大いに興味があった。ビルト社は規模としては中クラスであるが、技術レベルは非常に高く感じ…
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ホッと空の物語-11 TBM技術者としてスタート

大学の研究内容にあまり興味を持てなかったので、就職を選んだ。1972年で就職は比較的希望がかなう時代だった。重工関係の会社に入社して、土木機械課に配属された。シールドやTBMのトンネル掘削機の設計部門で20名程の小部隊で創設は1963年と歴史の浅い部門だった。 最初は米国のライセンスを基に国産化した硬岩用TBMに関わった。その他に小型…
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ホッと空の物語‐10 父母の記憶

姓は母方のものである。家紋は「丸に三つ橘」である。 ご先祖様として、お寺の過去帳に記名されている籐兵衛は、関が原合戦(西暦1600年)の頃に生まれ、1615年の大阪夏の陣頃に少年時代を過ごした人である。 江戸時代から苗字帯刀が許されたそこそこの地主であった。 母、智恵子は大正6年(1917年)生まれで一人っ子である。母の母ヒサも一…
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ホッと空の物語‐9 少年の思いー2

ホッと空の物語‐9 少年の思いー2(改)          憧れの高松高校に入った。合格発表と同時に呼び出しがかかり、入学日までの課題学習の指示があった。古文の課題として「徒然草」の読破、文章読解力の強化として笠信太郎の「物の見方」を精読して、要約・感想文を作ることであった。これは何度も読み直してノート1冊にまとめた。英独仏の民族…
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ホッと空の物語ー8 少年の思い-1

小学四年生の特、戦艦大和の模型を作った。粘土で船型を作り、それに習字の紙を何枚ものりで重ね張りして形を作った。甲板、艦橋、大砲は木で作った。電池とモーター、スクリューをセットして、重心を調整する。紙の船体に油性ペンキを塗って完成である。舵の角度を少しずつ変えながら大きな円を描くように池で走らせて遊んだ。壮観であった。艦長の山本五十六の気…
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ホッと空の物語ー7 昭和30年代の世相と風俗

昭和30年代の世相と風俗  戦争の残滓がまだ冷めやらない時代で、20年経ったら再戦と言う気分が漂っていた。遊びは戦争ごっこが流行っていた。低学年は新聞紙で折った兜を被って竹の棒で戦国武将を真似、高学年ではロケット花火で大砲合戦をした。竹で自ら弓矢を作り撃ち合いをした事もある。空気銃や黒色火薬を調合して手製の銃で遊ぶものもいた。私も傑作…
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ホッと空の物語ー6 昭和30年代の生活

昭和30年代の生活  茅葺きの家が結構あった。定期的に葺き替えなくてはならず、私も手伝ったことが有る。蚕を飼っていた家もあった。母屋の二階に蚕たなを作り、繭を取る。何万匹もの蚕が桑の葉を食べる音はすごいものパリパリと言う音が聞こえてきていた。 実家には大きなムカデが住んでいた。母は家の守り神だ、何もしなければ大丈夫だと言っていた。だ…
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ホッと空の物語ー5 実家の記憶

実家は讃岐の西の方にある七宝山の東山麓に位置している。 屋敷は、南北30m、東西20mくらいある。南東の角に門があり、アプローチが左にゆるいカーブを描いて母屋の玄関に向かっていた。 便所は母屋の西面にあるが奥座敷を通って一度、外に出るので、夜は怖わくて、1人では行けなかった。床は高いので板敷居間の土間からもぐって床下で遊ぶことが出来…
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ホッと空の物語ー4 小学生の頃

小学生のころ ピカピカの1年生 小学校はピカピカの1年生と言うが、そうでもなかった。入学式の写真では、皆面白い格好をしている。履物も長靴から藁草履、はだし等、色々である。制服が買えない家庭もあり私服の子もいたしランドセルを持っていない子も大勢いた。風呂敷や何かの袋で代用していた。ただ、あまり気にしていなかったと思う。教科書の購入…
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ホッと空の物語ー3 幼稚園の頃

幼稚園のころ 幼稚園入園は6歳である。場所は小学校の道向かいで警察駐在所の隣にあった。現在は、保育園になっていて、駐在所はなくなっている。幼稚園は小学校の反対側に移り、立派な園舎が出来ている。 かばんは今と同じ黄色い肩掛けであったが、よくランドセル風に背負って小学生の真似をしてカッコをつけていた。 毎年秋に演劇会があり、この年…
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ホッと空の物語を始めました

百万人の赤ちゃんが生まれれば百万の人生がある。 私の人生は1949年に日本の210万の一個としてスタートした。 人が時代を変えるのか、時代が人を育てるのかは知らないが、何人も社会の潮流から大きく外れることはできない。それでも一つのうねりの始まりから終わりまで見届けられたら幸せである。他人にはどんなに小さなうねりでも、素晴しい。いつも…
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