ホッと空の物語61‐中国紀行

 56才になると役職定年となり実務ラインから退く。2006年のことで、社内業務の他に関連会社MCLの専務の肩書をもらった。中小ゼネコンと共同で設立した小口径の推進機を扱う会社で、KHIが製造して方向制御機構と新開発の自走ロボット式測量技術が自慢で、経営的には優良企業だった。月に一度の役員会に出席するのが職務で無報酬である。そして毎年9月半ばに海外で役員研修があった。視野を広げようと言うことであった。

  欧州各国でビジネスをしたが、英国人、フランス人、ドイツ人、各国それぞれに個性がある。誠実な人(団体)もいれば、悪い場合もある。後者については、その程度を見極める事が大切である。小・中・大悪、粗暴悪、知能悪、さらに次元の異なる悪もある。同情の範囲も有れば、許し難い意図的なものもある。話せば解るか無駄かの峻別も必要である。これらはビジネス上の交流だけで推し量る事は難しいので、一般人の行動も観察して判断の一助とするのが良い。それにはじっくりした観光が適している。視野が広がる。

  2006年はベトナムのホーチミン市であった。
  2007年は中国、唐の都の西安である。中国には業務でも北京、天津、上海、武漢、広州、杭州、秦皇島、青島、大連などに出張したが秦皇島近くの山海関以外これといった思い出はない。しかしMCLの研修旅行は良い経験であった。
西安は一度いってみたい場所であった。北京の西南に位置していて、大唐帝国の首都で当時の世界有数の国際都市である。ちなみに隋の都洛陽は北京との中間である。西安は日本の弘法大師(空海)が学んだところであり、また楊貴妃の話もあって我々に馴染みの町でもある。町全体を囲んだ分厚い城壁は壮大である。ただ空気が汚れて視界が悪いのには閉口した。秦の始皇帝の墓と言われる兵馬俑(へいばよう)、各寺院を回り、満足の旅であった。城内にはイスラム街もあり面白い。夜は雑技団の演技を楽しんだ。
良い漢書があれば買っておこうと思っていた。西安近郊の大慈恩寺の博物院で「日々是好日」という書(掛け軸)を見つけた。院の先生の直筆の一点ものと言うが、中国一般所得の半年分とあまりに高価だった。交渉は出来ないと言うが、どうしても欲しくて帰りのバスに乗ってからガイドに交渉してもらった。円の現金でかなり安価で買えた。併せて山水画も購入した。同行者は「明日行けば同じものがまた並んでいるよ」というが、気にしない。

もうひとつ、欲しいものがあった。ヒスイの彫り物である。故宮の白菜の彫り物は有名である。五十万円程度の予算を考えていた。ある店で、素晴しい龍の彫り物があった。値切っていると何度目かにいきなり半額以下になった。それでむしろ熱が冷めた。ヒスイと言っても硬玉と軟玉がある。日本産は硬玉で中国産は軟玉である。宝石と認められるのは硬玉で価格は全く異なる。それに良く似た鉱物ならまだしも、日本に送られてからプラスチックなら悲惨である。
  2008年は北京オリンピックが開かれた直後に北京、万里の長城のコースで行った。万里の長城は「宇宙から見える唯一の人造建造物‐ホントかどうか知らないけど」とのことである。実際すごいものであるが、かように防護したのはなにを守ろうとしたのだろうと疑問にも思う。歴史の大きな潮流の前には役に立たなかったと言うことであるが、なお時代を超えて人々に人間集団の行動力の凄さを伝えるものである。
  最初の夜のホテルは八達峰と言う長城が二重になった内側にありなかなか風情がある。長城の壁の向こうは内モンゴルである。ホテルは比較的清潔にしているが、「生水は決して飲まないように」と言われた。しかし実は北京よりは山岳部なので水質は多少良好らしい。疲れたので風呂に入ろうとお湯を出したがこれが小便のような色をしている。配管が錆びているのだろうと思ってしばらく流したが綺麗にならない。あきらめて初日は風呂無しで就寝した。次の夜、湯に漬かりたかったが心配である。そのとき、ふっと、イタリヤだったか、フランスだったかのホテルを思いだした。黄色いお湯が出るのであるが、よくよく聞くと温泉である。有馬温泉と同じ鉄分を含んでいるわけである。そこで、湯船を見直すと注意書きがある。日本語で「温泉ですので心配いりません」とあった。あまり疑うものではない。移動行程がきつく疲労が溜まっていたので、じっくり金泉に浸って、マサージを頼んだ。来たマッサージ師は二十歳そこそこの娘で、力もない。何だ、これはと思ったが、その内うかつにも寝入ってしまった。しかし翌朝は疲れが取れ、実に爽快であった。すこし肌寒い朝であるが、朝日を見に長城付近を散策した。素晴らしい景色であった。その夜は中国側の管理者も我々のために短時間ではあったが長城の点灯サービスや、花火の打ち上げをしてくれた。それなりに観光サービスをしているのである。
オリンピック直後の北京に行き、メインスタジアムの鳥の巣などを遠くから見学した。この後のパラリンピックにために内部には入れなかった。写真などを見ると、これまでの建築基準、形状からは逸脱した構造であるが当然力学的な計算はされているだろうし、このような複雑な構成は相当に技術と管理能力を必要とする。多少奇をてらう感じはあるが、なかなかの傑作である。
 後は西太后ゆかりの頤和園(イワエン),明の十三稜、故宮、パンダ動物園等を観光、夜は雑技団を見学とお決まりのコースである。次の日は日中開戦の舞台となった盧溝橋に行った。この橋は盧溝河(現 永定河)にかかるもので1192年に完成している。マルコポーロも世界一の橋と称えた橋である。全長266.5mのアーチ橋で、欄干には多くの獅子の彫像が飾られている。昔はとうとうと水が流れていたらしいが、今は枯れてしまっている。黄河の断流と同じである。しかし、最近とみに日本人観光客が訪れるので、枯れ河ではまずいと言うことで、下流に堰を作って水をためているらしい。ガイドも知らなかったと言うくらいで我々が始めて水面を見た。ラッキーであった。
  1937年この橋をはさんで一発の銃声が響き、8年に及ぶ日中戦争が始まり、米国との太平洋戦争へと厳しい歴史が始まったわけである。このことは知っていたので、初めての訪問なのに、何か既知の土地で懐かしく感じたのは奇妙であった。
2009年は大連・旅順と青島に行った。大連にはロシアが租借時代に開いたロシア街が残っている。市街は高層ビルが立ち並ぶ大都市となっている。比較的古くから重機械工業が盛んで、仕事上でも一度シールド製作の協業を模索して工場を訪問した事がある。もうすっかり重工業地帯の大都市である。街の中心には広い店舗面積のデパートが軒を連ね、その前の広場は東京や大阪以上の喧騒である。

 中国人に最初に接触したのはドーバー滞在中でFCBが上海地下鉄用シールドを製作していた頃である。質素な人民服を着たグループが滞在していた。わずか数十年の変化であるが驚愕する。

 旅順は大連から車で数時間のところである。大連に比べるとかなり時代に取り残された感じがする。日露戦争の旅順攻略戦後の乃木将軍とステッセル将軍の水師営の会見場がある。観光客の大部分は日本人で近くの旅順地方料理を食べて203高地に上るのが通例のコースで、我々もそうした。ほとんど雨の降らない地方であるらしいが、この日はとんでもない豪雨で、坂道の多い町中が滝のようになってしまった。大連は今では巨大都市で多分日本時代の面影はないと思う。ただ中心部の円形広場にはヤマトホテルや銀行の建物は当時のまま残っている。また港には旧満州鉄道時代の日満連絡船待合所が残っている。
青島は一次大戦後ドイツ統治から日本に代ったが、ここも巨大都市となっている。青島(チンタオ)ビールの本場で、本社工場では試飲が出来る。ただ、市内ではアルコール度数がまちまちだったのには驚いた。

 2012年に技術提携中のSELI社が中国でシールドを製作しているということで、秦皇島市(チンホアンタオ)を訪問した。エチオピア向けの硬岩TBMを製作・組立していて、すでにかなりのレベルにある事がわかった。しかし私の最大の関心は山海関であった。甘粛省北部嘉峪関(かよくかん=jiayuguan)からの万里の長城が渤海湾に尽きるところである。手早く仕事を終わらせ、現地に案内してもらった。出来るならいつか長城の西の端にいってみたい。嘉峪関よりさらに西の砂漠に消えていくようである。



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