ホッと空の物語60‐ドーバートンネル後の世界情勢

1991年に英仏海峡プロジェクトが終了した後、硬岩用TBMはテイクオフ期を迎えていた。シールドは1992年に東京湾横断道路用14.14mφ泥水シールドを3基受注し、また着脱式三連シールドも開発受注した。海外でも1991年にプサン下水の硬岩シールドを始めロンドン地下鉄用シールド、中国 広州地下鉄シールドを受注するなど、売り上げ的にも増大期を迎えた。所属事業部門も成績好調で土木設計部門は1979年に播磨工場から神戸工場に移転し、さらに新築の神戸クリスタルビルに移動した。最も華やかな時代を迎えた。
しかし、国内の上下水道、地下鉄などのベースワークである中小口径機の需要はほぼ終了し、大型案件も数少なくなって、先細りが予想された。今後は海外での陣取り合戦と国内各社も積極的に動き始めた。
しかしながら、1991年のバブルの崩壊後、停滞していた日本経済は1997年の消費税率の引上げに端を発して長い深刻な不況に突入した。所属事業部は主力部門の不振により別会社化された。土木部門はKHI本体に残留となったが、鉄構部門の一部となり播磨工場に移籍した。1999年のことである。再び神戸工場に戻るのは2011年である。この12年間は、世界的な不況、リーマンショックなども起こり、業界の世界的変動の時代でもあった。

欧州方面

技術供与先のFCB社は英仏トンネル後も活発に営業活動を展開していて我々はパリの地下鉄トンネルの受注支援を継続していた。またスイスの斜坑TBMのEOSなどのため欧州中の建設会社をともに回った。残念ながら努力は実らずドイツ、カナダ勢に負けた。事業存続をかけてパリ環状道路 SOCATOP A86工事の必注を期して部門をあげて応援したが、これも受注ドイツの新進のHK社に奪われた。1997年初めの事であった。その後、FCBはポルトガルのリスボンで10mクラスの受注を得たが重大事故を起こし、加えて会社全体の業績悪化もあって、1998年に提携解消を申し入れてきた。担当設計部門員は涙を流したが仕方なかった。
一方、硬岩用ビーム型TBMについては、KHIは市場要請に単独では対応できなかったので(栗東TBMは1996年)スエーデンのアトラスコプコ社(AC)と1991年に販売協定を結んだ。AC社は米国のジャーバ社TBMを引き取って事業を展開していたが、販売網が弱く我々と補完関係で共存できるということである。この提携は彼らがほどなく撤退したので長くはなかったが、豪州向けのTBMの販売支援をした。
英国にかんしては、日本ゼネコンが多数駐在していたこともあって受注を得た。1993年にロンドン地下鉄用泥土圧を4基、1996年にテムズ河横断地下鉄用泥水1基などである。
欧州での地歩を固めるため、1996年にパリにロンドン事務所の支店と言う形で土木の事務所が開設された。英国、スペインで大型の案件が期待されていた。英国のCTRLやスペインのマドリッド道路トンネルである。
1998年にFCBが撤退したので、これに変わるべき協力者としてオランダのSTORK社などと協働を模索したが、ドイツ勢の影響が強くむしろ技術流出のリスク有りと思って断念した。その後、英国のマーカム社がCTRLの受注を目指して我が方に接近してきたので、技術供与の形で提携することにした(1998年)。そしてCTRL案件に注力していくことになった。これはTBMのロンドンオリンピックともいうべきもので、興味あふれる案件である。
国内のM社はスペインにおいて着々と地歩を固めて実績をあげていた。後年、我々も超扁平大断面TBMの受注活動を通じて、スペイン内の協力会社を探したが、彼らの熱意は薄く思わしい結果は得られなかった。
 その後、カナダのLOVAT社やイタリアのSELIとも提携したが、やがて彼らも世界的な再編の波にのまれていった。


中国方面

日本市場に替わりうるベース市場としては中国市場が考えられた。韓国にも進出したが、規模が大きくないので代替とはなりえない。
日本国内では30年間の間に約一万基のシールドTBMが製作されている。中国は面積・人口ともに日本の十倍を超すので、掘削機を数回転用(日本はほとんど埋め殺し)したとしても、二万基ほど必要である。すでに上海にはFBC社が7基のライセンス基を納めており、これは中国でのシールド工法の先がけであった。我々も直接輸出を行い大いに期待した。提携の形はこれまでの技術供与とは異なる、いわゆる合作である。経験は無かったが実際の条件次第では十分なビジネスチャンスになると考えられた。タイミング良く天津市に輸出した1998年頃より、一気に合作の話が進んでいった。しかしここで思いがけない障害が出た。新事業部の首脳陣は海外、特に中国市場には強い拒否感を持っていた。他分野での不具合がトラウマとなっていた。さらに、飛騨TBMやバンコックシールドでトラブルが続き、土木への不信感が生まれていた。やむなく変化を待つしかなかった。
その間に国内他社は中国市場で活動拠点を築いていき、またドイツHK社も大々的に進出してきた。そして中国メーカーは次第に部品の供給依頼から全品自社設計製造を目指し始めた。いずれ中国以外への輸出を始めるだろう。ただこれは想定内であり我々の自由な活動期間は10年だろうと思っていた。その間うまいビジネスをすれば十分である。
ともかく、中国では大した成果も得ないまま我々の出番は無くなった。巡ってきたチャンスは逃すと再び出会うことは無い。2015年以降は輸出先どころか、極めて強力な競争相手となった。中国設計の中国製造と日本設計の中国製造との競争である。勝敗はどうなる?
もう一歩先の手を打たなければならない。
第一はさらに先の未開拓の市場を目指すこと。第二は中国勢が出てくる前に、市場を確保することである。第一の目標はインドで第二は東南アジア、中近東と考えた。


東南アジア方面

シンガポールの市場をターゲットとして1998年より本格的な受注活動を始めた。2001年に7.16mφデュアルモードシールドを納入した。2005年には地下鉄用としてLTAにC853,854計8台を納入した。
シンガポールではこれまでも土圧式のシールド工事は行われていたが、LTAの若きエンジニアの一人が泥水工法の採用(導入)を強く望んでいた。2003年から何度も訪星して彼と地質検討を一緒に行い、サークルラインC853工区で4台のうちより岩盤比率の高い2台を泥水で施工しましょうと決めた。
続いて854工区が4基岩盤泥水で出件した。施工者は別なメーカーを考えたが、経験と実績優先として我々側に修正された。彼とはその後も学会などで頻繁に接触して、個人の事、技術の事などを話し合った。立場を超えての友人の一人である。
シールドTBMは受注生産品であるので性能、品質、コストは重要であるが、最後は信頼感が大事である。「安心できる」、「信用できる」のは当たり前で、「信頼感」が無ければ、其処には発注出来ないと言う。信頼感は個人に属するものであるとも言う。


インド方面

2009年に60才定年になり、より自由な活動が許されるようになった。
  シールド工事は国の近代化度がある水準に達すると急速に増加する。上下水道、地下鉄など基盤整備が加速されるためである。中国は2000年に入ったころから発展していたが、残念ながら出遅れてしまった。そこで次の国はインドであると睨んで、今度は早めに手をうとうと考えた。
幸いシンガポール案件が多くあったので、ここを足がかりにインドを訪問した。
そして調査から開始した。合わせて三回調査活動をした。
一回目は2010年5月、南西部のプーネ市にあるWIL社である。
二回目は同年7月のコルカタ市にあるTEXMACO社。
三回目は同じく10月で、チェンナイ(旧名マドラス)市にある、KCP社である。
インドは我々の常識が異なり、何か事業をするには現地の協力者が必須である。
この中でWIL社は製造技術的に問題が少なく、彼らも新事業に期待と意欲を示し、技術供与契約をしましょうとなって、記念植樹を行った。
契約条件等は何度も経験があるので大筋合意して後は、次代の人達に引き継いだ。
ところが、一向に進展の様子が無いままに2年が過ぎた。
インドでもバンガロール地下鉄等でシールド工法がホットになってきたので、あわてて再度テコ入れにかかった。しかし2012年にWIL社を再訪問した時には、二年間の放置を強く叱責され 何も出来ないまま終わってしまった。
その後、協力社を探し続け、L&T社と提携直前まで行ったが、結局実らなかった。このときには中国勢が安価なマシンを投入し始めており、独HK社は工場を建設して本格的に乗り出していた。我々はSELを通じて一基分の部品供給に終わってしまった。
とらぬ皮算用はしても意味がないが、二年間の放置はまことに残念であった。


大まかな動向
 土圧式、泥水式の開発以降、掘削コンセプトに関する新技術は出ていない。根本技術が止まると、後発に追い着かれる。そして既に新しい形の競争に入っているのかも知れない。2010以降の世界的メーカー再編はその表れかも知れないと思う。

画像画像


画像


画像




div align="center">画像
ます" />

<