ホッと空の物語-12 欧州への留学

欧州への留学

昭和53年(1978)、29歳の時に幼少から憧れていたドイツに2ヶ月の予定で行くことになった。
盆休みの前日、十数頁のカタログを3冊渡されて休みの間に読んで来いと指示された。独語である。読めるわけはなかったが帰省を取り止めて何とか2ページ程訳した。たったこれだけかと叱られたが、すぐにパスポートを取れと言う。他の人にも指示していたが誰もしなかったので君に決めたと。
岩盤を掘る機械(TBM)を、ドイツのビルト社から輸入する事になって、メンテナンス技術の獲得のため機械メーカーの技術者として研修団に参加する事になった。同年代の若い人を中心に10数名であった。
10月8日、大阪伊丹空港から同僚の万歳三唱に送られて、米国アンカレッジ経由で出発した。ソビエト連邦の上空を飛ぶことができないので17時間かかった。フランクフルトから飛行機を乗り継いでデュセルドルフへ、そして列車に乗り換えて、ミュンヘン グラッドバッハ(Monchen Gladbach)を経由してエアケレンツ(Erkelenz)という町に到着した。ボン、ケルンは近くである。
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エアケレンツの街は人口5万人程度の小さな町である。宿舎は教会横のペンション(民宿)ですぐ隣にはコンビニエンスストアがあった。まだ日本にはなかったスタイルの店で便利であった。東洋人はほとんど居なかった。奇異な目を向けられていたが、次第に親密になりビールバーで一緒に飲むようになった。
朝食はペンション、昼食はWIRTH社の社員食堂で、そして夕食は国鉄の駅の食堂である。どれも大しておいしいという記憶はないし、野菜は生で出てきた記憶もほとんどない。ただ、ワインはいくら飲んでも良いというのが嬉しかった。
町はとても清潔で、通りに面した窓には常に生花が飾られていた。朝六時前には、各自家の前の出来の悪いでこぼこ石畳を若い娘さんも含め四つばいになって素手で雑巾掛けをする。
この街には18年後に再訪問の機会があったが、町並みも、店も当時のままだった。
週末はビルト社がライン川下り、ドルトムント、ニュルンベルグなどの観光をしてくれた。日本では高速道路はあまり無かったがアウトバーンなる高速道路が網の目にめぐらされている。速度制限無しで、大体1時間100Kmの割合で国内移動ができる。高架道ではなく平地道である。ベルギーではこの道路の横に自転車道、乗馬道が併走しているところがある。乗馬服姿の娘が金髪をなびかせてトレッキングする様は実に絵になる。
ベルギーのブラッセルに知人がいたので列車で訪ねた。国境を越えてリエージュの手前で入国審査の警官が来る。土産に羊羹を持っていたが、上手く説明できない。ちょうどイスラエルのテルアビブで日本人が爆弾騒ぎを起こした後だったので、プラスチック爆弾かと警官は身構えている。包みを破ろうとしたので、止めると、拳銃を抜いてホールドアップしろという。パスポートやら荷物を散々調べられたが、本当に撃たれるのかと思った。ベルギーではナポレオンと英独軍が戦ったウォータールーの戦場跡等を観光した。
ある週末は皆でオランダのアムステルダムに行くことになっていたが前の晩、飲みすぎて取り残された。後から追っかけることにした。国境の町アーヘンでケルン発の高速鉄道のTEEに乗り換える。ここは工科大学の町で駅前には首都を置いたフランク王国のカール大帝の銅像がある。TEEの中で、切符の確認に来た車掌が何か盛んに喚いている。OK?OK?と聞くのでOKと答えたが、エアケレンツで切符を買う時も何か注意されていたのを思い出し、不安になってきた。列車はコンパートメントで、綺麗な娘さんと一緒だったので、その娘に何か問題があるのかと聞くと、切符を見て、あなたはアムステルダムへ行きたいようだが、この列車はロッテルダム行きです、と言う。位置関係は判らないので、どうしたら良いと聞くと、次のウトレヒト(Utrecht)駅で乗り換えなさいという。乗り換え時間がないので、分からないでしょうから、連れてってあげると言う。荷物を持って二人で走った、走った。上手く乗れたが、その娘は、元の列車を逃してしまった。でも明るく手を振ってくれた。
そして夕方にアムステルダムの駅に着いた。なんと駅舎は東京駅とそっくりである。なんだ、真似をしていると思ったが、東京駅が真似をしているらしい。そりゃそうだろうな。
ドイツには十月になるとオクトーバフェスティバルという休みがある。日本の連休と合わせてミュンヘンに列車旅行をした。ケルン、ボンを通って、コブレンツ、マインツ、ハイデルベルグ、シュツッツガルト、アウグスブルグそしてミュンヘンである。ハイデルベルグは一泊して古城を散策した。アウグスブルグ近くの宮殿はすごい豪華さである。フランスのベルサイユ宮殿にも見劣りしない。ここで見た宗教画には非常に感銘を受けた。
この宮殿帰りの近郊電車の中でちょっとしたハプニングがあった。結構乗客がいたが最後部の真っ白に塗られた一帯は誰もいない。空いてると思い座っていると、中年のヒゲおじさんが来て何か喚きだした。その剣幕に驚いて通訳も言葉がわからない振りをしている。黙っていると、また別な人が来て、最初の人に注意をしている。そのうち喧嘩になったので、具合が悪いと思ってともかくそこを出たが、二人が、三人になって口論となった。 後で聞いたが、その席は年寄りや身障者専用の優先席なので使用してはいかんと最初の人が言い、次の人が日本人であるから知らないのだろう、良いではないかと、三人目が仲裁に入ったが、議論になってしまい、お互いに引っ込みがつかなくなったと。
ミュンヘンではホッフブロイハウスでビールを飲みながらドイツ料理を満喫した。凄い広さのビアホールである。豚のすね肉を炙り焼いたアイシュバインやザワークラフト等が美味い。楽団がいて、みんなで合唱しながら騒ぐ。楽団は1曲1マルク(90円)でリクエストができ、日本人と見ると軍艦マーチなどを演奏してくれる。このホールでは、隣に座ったドイツの御上りさんの若い娘とダンスを楽しんだ。真っ白い頬をピンクに染めてはにかんでいた。
この帰り道にちょっとしたトラブルがあった。4,5人で帰っていると、7,8人のドイツ人若者に囲まれた。何か雰囲気がおかしい。タバコを出せという。仕方ないので一本出すと、火を点けろという。これもしてやると、今度は金を出せという。いやだというと、「お前たちは韓国人だろう、金を出せ」と「違う日本人だ」とパスポートを見せた。すると、「本当にすまない、タバコいるか」とドイツものを一箱出して、しきりに謝って去っていった。
次の日はドイツ博物館に行った。ここは産業革命以降の工業製品を陳列しており、ベンツの車、Uボート、飛行機など、製品の一号機が飾られている。そのあと、白鳥城として名高い、ノイシュバインシュタイン城やワイン城をめぐって、夜行寝台列車でケルンを通ってエアケレンツに帰った。
2ヶ月ほどの研修が終わっていよいよ帰国である。まっすぐ帰るのももったいないということで、アメリカ周り、パリ周りに分かれた。パリ周りにした。エッフェル塔、凱旋門、ベルサイユ宮殿、ルーブル博物館などを見学して回った。夜は高名なナイトクラブであるクレージーホースに行ったが、客のほとんどはフランスの上流階級でタキシード、ドレス姿であった。外国人は立ち席である。ただし、10年もすると日本人とアメリカ人の客になった。
ルイビィトンが有名だといわれて行ってみたが、門番が何しに来たといって、犬を追い出すような格好をする。ここも、いやな国であると良い印象は持たなかった。ドイツがとても懐かしく感じた。
帰国はパリのドゴール空港からであった。搭乗時刻まで買い物をしながら待っていると、農協の団体らしいオジさんが、便所、便所と探している。あそこだと教えると、これ要らないからあげるといってもらったのが1ポンド硬貨十数枚である。1枚800円である。硬貨は日本では円に換金出来ないので、もう要らんと。そんな時代であった。
事前の情報は得られない時代だったので、何もかもが新鮮で驚きの連続だった。

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この記事へのコメント

2019年10月19日 08:42
時代も年齢も良い時だなぁ

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