ホッと空の物語‐9 少年の思いー2

ホッと空の物語‐9 少年の思いー2(改)         

憧れの高松高校に入った。合格発表と同時に呼び出しがかかり、入学日までの課題学習の指示があった。古文の課題として「徒然草」の読破、文章読解力の強化として笠信太郎の「物の見方」を精読して、要約・感想文を作ることであった。これは何度も読み直してノート1冊にまとめた。英独仏の民族的考え方の違いを記した書物で、これは後年非常に役に立った。
学業成績は学年で10番以内だった。どの大学のどの学部にも行けるレベルだった。しかし父に勉強も良いが、体を鍛えておかないと長い人生持たないと言われた。 いまさら新しいスポーツも出来ないので、初心者が多い水泳部にした。指導の先生に、貧弱すぎて無理だと断られたが、なんとか入部を許してもらった。水泳を始めて体は逞しくなったが、成績がみるみる下がり100番台になってしまった。希望の大学は望み薄になった。ただ部活のせいではなく自身でも納得した。それは数学の問題を3日ほど考え続けていると、突然脳味噌がカラカラと音を立てて回った。限界だった。
結局 大阪大学工学部精密工学科にした。造船学科に行くつもりだったが、父の「今が盛りの産業は、将来は危ない、汎用技術が良い」との言に従った。正解だった。
入学すると二年間は教養部に属し、キャンパスは豊中市の石橋にある。香川県人寮が阪急岡町駅近くにあり、そこに入ることになった。高松を出る時、父から「お前の財産や」と言って柳行李をひとつもらった。寮には給食を受けるため米穀通帳を提出したが、住民表は移さなかった。その後の国勢調査で高松の住所は抹消となって住所不定者になっていた。
仕送りは寮費を除いて月に八千円であった。学費が月に千円で、阪急の定期券が月千五百円程度であった。学食のカレーが80円、ウドンが40円で、ランチが130円である。とても部活の費用や教材を買えないのでアルバイトをした。おもに近くの運送会社で引越しのアルバイトをした。引越し作業は、その家庭の環境や生活ぶりを垣間見る感じで面白い。社会的ステータスが有っても、約束の時間になっても荷物は出来ていない人もいるかと思えば、きちっと梱包して小物はすでに運んでいる人もいる。こんな人が結構チップを弾んでくれる。北千里の団地への引越しが多かった。しかし2010年以降はゴーストタウン化していると聞いた。
実家には良く帰省した。大学3,4年の時は父母は勤務の関係で小豆島に済んでいた。内海町で、二十四の瞳の街である。近くに草壁港が有り、高松ー神戸行きの客船があった。九州小倉行きも有り、大学四年生の時は安川電機に工場実習でこれを利用した。
1968年の大学入学時の世の中は、70年安保騒動のときであった。これに呼応して東京で始まった学園紛争は関西にも飛び火し、阪大も例外ではなくなった。闘争学生のグループは主導権争い、組織拡大に狂奔していた。大学構内には各派の旗が林立し、示威行動のデモ行進が毎日のように行われ、グループ間の衝突も頻発した。教職員にも60年安保時の学生が居て煽るので、収集がつかず滅茶苦茶であった。
1回生の10月に全学ストライキとなった。この期間は何とも人生で一番の優雅だった。遊び、バイト、クラブ活動、旅行と自由気ままに過ごした。スト期間中は、朝11時に起きて、大学の学食で昼食を食べ、それから夕方まで水泳の練習をした。寮で夕食、それから朝までマージャン、これが日課となった。
水泳部は教養部の間所属していた。
すべての泳法は泳げて記録はまずまずであった。対外試合は名古屋大学との名阪戦、旧帝国大学間の七帝戦、インターカレッジ、関西学生選手権などである。七帝戦は1回生の時は京大で、2回生の時は北海道大学で行われた。一同に集まると、各大学の風土と言うか、気質が比較できて面白い。この時感じた各大学生の気質は、社会人になって感じた各大学卒業生のものと比較しても大略間違ってはいないのが、さらに面白い。北海道での七帝戦は大きな思い出になった。日本海側を列車で北上し、青函連絡船に乗って札幌へついたのは24時間後であった。
北大での試合の後、5~6人のグループで札幌から層雲峡⇒旭川⇒稚内⇒旭川⇒網走⇒知床周遊船⇒羅臼⇒摩周湖⇒屈斜路湖⇒釧路⇒帯広⇒襟裳岬⇒苫小牧⇒支笏湖⇒登別温泉⇒洞爺湖⇒函館⇒連絡船⇒仙台⇒東京と回り、新幹線で大阪へ帰った。約二週間の行程であった。
2回生の前期の終わりに、警察機動隊が主要建物を要塞化して立てこもった闘争派学生を排除にかかった。学生側は火炎ビンで応戦した。私も面白半分に学生側や、機動隊側についたりして走り回ったが、その日のうちにあっけなく終わった。
その後、大学管理法案が成立し、こういうことはできなくなったが、学生の覇気も無くなった気がする。
スト休講は1年間であった。分かっていれば何か出来たのにと残念だった。この間に国内や海外を放浪するものや大学に還ってこない人も出た。さらに紛争終了後の4回生になっても生涯闘争派を気取り、売り手市場にもかかわらず就職が出来ない(しない)人も大勢いた。今頃後悔していると思う。父が「先頭を行くのは良くない」と言っていたが、そうだと思った。父が大学に入った時、ドイツに遊学したらどうかと盛んに勧めた。同窓から一緒に行こうと話もあったが、決心出来なかった。悔いが残った。
こうして、1年間続いた全学ストは終了した。しかし、ストのつけは大きかった。最大の難関は工学部への進級試験である。スト解除から2週間後の試験と決った。試験範囲は示されたが、何しろ講義無しの試験である。留年はできない。2週間と試験期間の1週間、計3週間はほとんど眠なかった。 眠気を防止するドリンク剤を飲んでしのいだ。同じ薬局では購入は3本までの危険な薬だった。そのうち胃が食物を受け付けなくなる。最後の日は意識朦朧であった。試験が終わった後、3日間眠り続けた。しかしこの後、奇怪な禁断症状に苦しみ、脱却できたのは2ヶ月後であった。習慣性薬物は実に恐ろしい。ともかく晴れて工学部への進級となった。
工学部に進級するころに千里に新キャンパスができた。大阪万国博覧会場の隣である。ただ、千里キャンパスは阪急千里線の終点の北千里であり、岡町からはVの字の関係にあって一度十三に出なくてはならず非常に不便であった。そこで千里のお百姓さんが作った学生アパートに移った。陸の孤島のような集落だった。

工学部と卒業研究
当時の精密工学科には、加工系と、表面系、数値制御系(今のコンピュータプログラム)、光学系、計測系、材料・材料力学系、流体系などがあった。数学的なものは難しく、加工もつまらんと感じ、表面系の研究室にした。
研究項目は、金属表面の接触に関わる、初期摩耗、寿命、焼き付き、潤滑などであった。私はフレッティング摩耗というテーマに取り組むことにした。これは通常は摩耗が発生しないと考えられる極微小の往復変位によって摩耗が起こる現象である。博士課程と修士の人とのチームであった。既に数年前からスタートしており装置も有ったが、さらに精密な実験をするために小型の装置を新たに作ることになった。
新しい装置の目標性能は1ミクロンから50ミクロンくらいの往復動を可能な限り正確なサイン曲線の形で実現することと、その振幅と荷重を自由に変更できること、試料は正確な正方形で各試料の面積の誤差が少ないこと、その表面粗度はミクロン以下のものであること、であった。バイメタルの原理を応用した装置を自分で設計し旋盤・フライス盤を使って自ら製作した。工作機械は習熟訓練から入った。装置製作は三ヶ月かかった。昼間は講義もある上、雑音が多いので毎日夜間に工作機械に向かった。非常に生きがいを感じた毎日であった。
実験は条件を変えて多数実施し、データを採取していくのであるが、正直面倒で好きではなかった。しかし卒業論文は予定項目を100%消化して提出した。
卒業後は大学との関わりは、深くはなかったが、精密工学55周年の記念同窓会があって、記念講師として招かれ、英仏海峡のトンネル工事について講演をする栄誉を頂いた。

万国博覧会とトンネルとの関わりの予感

大学4回年の時、大阪万博が開催された。会場は千里キャンパスのすぐ隣である。私の通学用の阪急千里駅では各国のコンパニオンと乗り合わせた。世界にはこんなに多様な人種がいるのかと驚嘆した。万博は世界への大きな窓になった。
2回生の春の夕方、大阪梅田にいた。そこは地下鉄工事をしていて、一帯の道路は鉄板で覆われていた。天六の方で何か事故があったと群集が騒いでいた。現場に近づくとすごいガスの匂いがしている。直感的に身の危険を感じ引き返した直後ドーンと爆発音と真っ赤な火柱が立った。
これを境にトンネルは開削工法からシールド工法に変更されていくことになった。


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