ホッと空の物語ー7 昭和30年代の世相と風俗

昭和30年代の世相と風俗 
戦争の残滓がまだ冷めやらない時代で、20年経ったら再戦と言う気分が漂っていた。遊びは戦争ごっこが流行っていた。低学年は新聞紙で折った兜を被って竹の棒で戦国武将を真似、高学年ではロケット花火で大砲合戦をした。竹で自ら弓矢を作り撃ち合いをした事もある。空気銃や黒色火薬を調合して手製の銃で遊ぶものもいた。私も傑作のおもちゃを作った。指を使って輪ゴムを用いて二つに折った紙を飛ばす物を銃形式にしたものである。小学4年生と記憶している。このゴム銃でハエを撃つと、秋口では動きが鈍くなるのでよく当たる。
夏が来ると、みんな池で泳いでいた。高校生や中学生も一緒で学校ではエッチ褌(越中褌)をするが、ここでは低学年は男の子も女の子もスッポンポンであった。6年生位になると六尺褌となる。そのうち農薬が使用されて、泳げなくなった。
年に1回、チョンガラ節屋(浪速節)と渡りの旅芸人一座が来て池の横の荒神さんで演じていた。私は好きでじっと座って聞いていた。源義経と弁慶の安宅の関や、寛一とお宮、浅野匠守の松の廊下などは面白かった。読書も好きで記憶にあるのは、安寿と厨子王(山椒太夫)、忠臣蔵、弁慶物語、母を訪ねて三千里等である。読んだあと何日も、主役になりきってしまい寝られない日があった。
集落には、テレビが少なかったが、金曜日は庭にテレビを出して、子供に開放した。力道山のプロレスを見るためである。ルー・テーズ、カール・ゴッチなどの強豪との試合もすごかったがなんと言っても、シャープ兄弟、ブラッシーなどの悪役にやられながら、最後に空手チョップでやっつけるというのは、スカッとしたものである。そのあと来た魔王デストロイヤーは強かった。4の字固めなんかが決るとみんな悲鳴を上げた。だけど力道山だけは参ったと最後まで言わなかった。
小学5年生の時に池田内閣ができ、所得倍増計画が始まった。中学を卒業して集団で大阪、神戸へ就職を始めた。それまでは村から出て働き、現金収入を得る事は想像もできなかったから、大変な変化であった。残った両親は鼻高々だった。初任給は3000円くらいだったと聞いている。ほどなくテレビ、洗濯機、冷蔵庫などが出回り始めた。周りの自然が変わり始めたのもこの頃である。
そして、米国から次々と新しい流行が入りだした。まず黒い人形のダッコちゃん、フラフープ、そして40年台に入るとスーパーボールという、とてつもなく反発力の大きなボールが出てきた。米国の技術力に驚嘆した。テレビでもアメリカの家庭ドラマが放映され始めた。父と3人息子を描いた西部劇「ボナンザ」やコメディ「ジャジャ馬億万長者」などで、米国の豊な一般生活は羨望の的でかつ、刺激的であった。

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この記事へのコメント

2019年10月19日 08:44
へぇそうですか?

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