ホッと空の物語ー6 昭和30年代の生活

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昭和30年代の生活 
茅葺きの家が結構あった。定期的に葺き替えなくてはならず、私も手伝ったことが有る。蚕を飼っていた家もあった。母屋の二階に蚕たなを作り、繭を取る。何万匹もの蚕が桑の葉を食べる音はすごいものパリパリと言う音が聞こえてきていた。
実家には大きなムカデが住んでいた。母は家の守り神だ、何もしなければ大丈夫だと言っていた。だが小学低学年の時、寝ている私の坊主頭の上を這っていたので引き剥がして殺した。しかし母がムカデは夫婦で暮らすと言っていたので仕返しに来ないかと心配だった。後年、高松に帰省した時、布団に入ったらガサゴソするではないか。体長20cmくらいのムカデであった。心臓が止まりそうだった。比地からくっついて来たのである。今でも高松の家には住んでいて、仕返しの機会を窺っているのではないかと思っている。
小学4年生の秋、大きな病気をした。学校で急に頭が痛くなり、しんどくなって来た。学校をようやく終えて帰宅しようとしたが歩けない。田んぼのあぜ道を歩いては寝っころがり、歩いては寝っころがりしてようやく家にたどり着き、そのまま寝こんでしまった。朝、母に起こされ飯も食えずにボーとしていると、父が「何をぐずぐずしている、早く行かんか!」と言って張り倒された。ゆらゆらと立ちあがってみたものの、玄関で敷居につまずき倒れて、そのまま意識がなくなった。42℃近くの高熱が続いた。天井がゆっくりと回っている。毎日の様に医者が来るが判らんと言う。休日に小学校の田辺先生が来てくれて、強い勧めがあって、小児科医から普通の内科に代わった。「肺炎や、この子はもうあかんで」。「アメリカからペニシリンとかいう薬が入ってきとるが、使う量がわからん。死ぬかも知らないが、打ってみるか?」。それから毎日お尻にペニシリンを打たれた。それでようやく助かった。大人になるまで肺のⅩ線写真の影は消えなかったが。
 学校では父親のいない子供が多かった。亡くなったのか、いないまま生れたのかは知らない。そういった母親は理髪店をしたり学校の給食婦だったりした。二号さんというのも多かった。実家の近くにも二号さんがいて、大きな家を立ててもらった。両親は反対したが、私はなぜかよく家に上がりこんで遊んでいた。土曜の夕方になるとバタバタというスクータに乗って旦那がくる。名前の通りで遠くからでも聞こえる。すると二号さんはクスンだ着物を赤い襦袢に着変えて「もういんでよ(帰って)」と言う。なんか秘密を覗いている様な愉悦感があった。

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