ホッと空の物語ー4 小学生の頃

小学生のころ

ピカピカの1年生
小学校はピカピカの1年生と言うが、そうでもなかった。入学式の写真では、皆面白い格好をしている。履物も長靴から藁草履、はだし等、色々である。制服が買えない家庭もあり私服の子もいたしランドセルを持っていない子も大勢いた。風呂敷や何かの袋で代用していた。ただ、あまり気にしていなかったと思う。教科書の購入は自費で、兄弟のいる場合はお古を使い、いない場合は近所の子のお古をもらった。だから教科書を汚すととても叱られた。私の場合、兄がいたけれども教科書は新しいのを買ってくれた。しかしノートは無く、新聞広告を切ってその裏を使っていた。鉛筆もなかなか買ってもらえず、短くなるとキャップをかぶせて使った。消しゴムはもちろん買ってもらえないので、つばをつけて消していた。
小学校は家から2kmくらい下った県道沿いにあり家から歩いて30分程である。通学は特に集団登下校という事はしていなかった。
学校の位置は家から四角形の対角にあるので経路は二つあるが、稲を刈った後は田んぼを斜めに真っ直ぐ横切って行った。冬は麦を植えていたので霜踏みをしているようなものだった。道路は全く舗装がないので雨の日はあちこちに水溜りができる。めったに車は通らないが、たまに通る時、うっかりしていると、バシャッと「はね」がかかってしまうので、サッと傘でカバーしないといけない。この頃の傘は和紙の上に油をふいた唐傘なので、破れ易い。裏側からの水に弱いのである。自分で傘を持っている子はほとんどいないので、学校は生徒数分の唐傘を置いて貸し出していた。因みにこの頃の車は前にクランク棒が付いていてこれをまわして始動するが、よくエンストを起こしていた。
学校の建物は木造の4教室くらいの平屋建教室が4棟と統合される前に中学校として使用されていた木造2階建の教室1棟、そして木造の職員室があった。古びた講堂は3年生位の時に体育館を兼ねた鉄筋コンクリートに新築された。木造の建屋の教室は毎週1回掃除がありほうきで掃いた後雑巾がけをしていた。
トイレは別棟になっていて大小ともに便器はなかった。大便所は、下に川のように水が流れていて、それを跨いでするのだが、短い足なので本当に危なっかしかった。
小学5年生になると便所の肥を近くの田んぼの肥溜めに運ぶ仕事が回ってくる。天秤棒で肥桶を前後に担いで運ぶのであるがコツがいる。私は家の肥溜めを150m位離れた畑に運んでいたのでそんなに苦にはならなかった。
校庭には何処の学校にもあったように、二宮金次郎の銅像と、大きな銀杏の木があった。
現在の校舎は全部鉄筋コンクリート製になり、金次郎も銀杏の木も無くなっていた。建物は変わってもいいが、古い木が無くなるのは母校が無くなったようで寂しい。
プールは3年生くらいの時に出来たと思う。池で泳いでいて亡くなる子供が後を絶たなかったからである。それでも池で泳ぐことは無くならなかった。
各学年は二つ上の兄の学年から50人超の学級が2クラスあった。私が4年生になった時の生徒数が1番多く全校生600人くらいだったと思う。しかしこの時の1年生は1クラスだけで人数も少なくなっていた。
昼食は給食である。いつも空腹であったから毎日楽しみにしていた。百姓以外の家庭には米は配給制で、ちゃんと守っていた裁判官が飢え死にしたと言うくらいのわずかな量であった。この配給制度は大学入学時まで続いており、大阪に下宿した時は配給を受けるための米穀通帳を持っていった。
給食の内容は、パンと牛乳そして副食である。副食は焼きそばが好きであった。かなり頻繁に鯨の肉が出たが、スジ肉などは噛み切れず、6時限終了まで噛んでいた事もある。パンはカサカサに乾燥して美味しくなかったが、時たま焼き立てが当たると、得をした気になった。レーズン(乾燥ぶどう)が時々出たが、これは嫌いだった。味が合わなかった上に「アメリカ様のご好意の配給であるから感謝して」と言われるのも何か気に食わなかった。牛乳は脱脂粉乳で、喉に引っかかる感じで、これだけはなかなか飲めなかった。高学年になった頃に本当の牛乳になった。1斗缶で運ばれて来たのを温めてから飲む。その缶を700~800mほど離れた配給所まで返却に行くのは生徒の仕事で、2個ずつぶら下げて行くが、しんどい仕事であった。


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